嬉しい時も、ときめく時も、辛い時も、悲しい時も⋯⋯⋯。いつも音楽は、人の心に触れ、
寄り添い、潤いをもたらす。私にとって音楽は丸で血液のようだ。音楽と共に素敵な生活を。
Vol.5 心に生きる、ビル・エヴァンス。Byヒコ・ウォーケン
第一章 晩秋の山に静を求めて。
車は緩やかに晩秋の越後路を走っていた。収穫の終わった田園に寄り添うように雪国の民家が見え、過ぎて行く。右手には越後の山の連なり、八海山が見えてきた。光の加減で山並みはネイビーのシルエットで神秘的だ。
今日は滅多に取れない休み。戦士の休息と言ったところである。都会の喧騒に揉まれていると、澄んだ空気とゆったりと流れる時間が愛しい。車はやがて右手の山麓に向かいハンドルを切った。急坂を力強く走り、杉木立の中にハ海山尊神社の佇まいが見え隠れしながら、車は目的地に着いた。杉の巨木に覆われて目的の蕎麦屋が溶け込んでいる。
開業して100余年、始まりは山に供える蝋燭屋だったそうだが、時の流れと共に八海山の名水を元に蕎麦を打つようになったらしい。
この店の粗挽き蕎麦と越後の山々で採れた山菜盛り合わせ料理が絶品で、車が次々に登ってくる。私は幸運にも個室風の小さな椅子席に案内された。テーブルの右に四角い窓があり、丸で絵画のように杉の巨木越しに神社が見える。
薄曇りの午後だったが、時折木洩れ陽が差し、一瞬にして巨木の地面の草や苔が光り、緑の艶が映える。
大自然の美しさに勝るアートは無い。素朴な蕎麦を食し、心も満たされて店を後にした。
第二章 これぞ至福。静寂の山で聞くビル・エヴァンスのピアニズム。
車が坂を降りると左手にハ海山尊神社の広場に着く。長い石段の上に神社は佇んでいた。裏手には幽玄の木立が聳え八海山の急峻な山影が雄々しい。
もう随分前になるが私は八海山に登ったことがある。ロープウェイで終点まで行き、女人堂、千本檜小屋、大日岳のコースだった。1778メートルの登山は途中、細い山道の両側は雑木林に覆われ景色が見え無い。ただ黙々と尾根を歩くだけで一体どの位進んでいるのか分からない。やがて見えてくるのは急峻に聳える岩山であった。越後駒ヶ岳、中の岳が見え越後三山の勇姿に感動した記憶が蘇る。
こうした神を仰ぐ神秘の山と呼吸すると、私はエヴァンスを聴きたくなる。この杉木立に最も相応しいエヴァンスの名演は『ピース ピース』だ。山々に向かい深い呼吸をしてへッドホンを付けた。クラッシックの香りがするこの曲は、エヴァンスが子供の頃好きだったラフマニノフやラヴェルの影響もあるのだろう。静謐で端正。内省をポツリ、ポツリと語るようなピアノは、神の山と仰がれる神秘の杉木立に同化し、余りにも美しく溶け込む。名景と名演。この二つの重なりが心に沁みてくる。私にとって最もクオリティーの高い時間である。
エヴァンスは当時のミュージシャンがこぞってJAZZとソウル、ロックを融合させるフュージョンに傾斜して行った中で、ひたすらアコースティックなモダンJAZZを丸で求道者のように貫いて行った。その音楽スタイルは余りにもかっこよく、孤高の道が残した作品は今でも燦然と輝いている。
だが、その内側には見えざる苦悩が隠されている。エヴァンスの代表作に『ワルツ・フォー・デヴィ』がある。彼が幼い姪子に捧げた曲である。躍るリズム、インテンポから4拍子に入るピアノトリオの名作だ。ベースのスコット・ラファロは高音域でベースを弾き従来のスタイルと一線を画した。だが、この『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の収録後わずか11日後にラファロは交通事故で急逝する。エヴァンスの失望は想像に余りある。
エヴァンスにはスタンダードのアレンジ・センス、インタープレーの創造。美しいメロディー・ラインに繊細な感情が込められたピアノ・プレーはやはり、ピアノトリオを語り継ぐ上で永遠の存在である。美意識と叙情性のあるピアノはこれぞ白人モダンJAZZの象徴と言えよう。
されどエヴァンスのステージの裏には彼の苦悩があった。兵役に出た時からの薬物依存は彼の人生の終末まで続き、また飲酒も身体を蝕んだ。彼と人生を12年間共にした女性は地下鉄に投身自殺、共に音楽好きの敬愛する兄は拳銃自殺を。ラファロを含め身近な三人が世を去っていった。その悲しみはいかばかりだっただろうか。
エヴァンスは『ポートレイト・イン・ジャズ』を始め語り尽くせないほど名作が多い。
中でも私がよく聞く曲は『My Foolish Heart』である。邦題で『愚かなり我が心』。立ち上がりから寂静感のあるメロディがエヴァンスの感性と重なり、ドラムスのブラシとシンバルが秀逸で、よく響くベースも印象強い。この曲はトニー・ベネットが歌いエヴァンスがサポートする盤もある。されど演奏の表情が全く違い、エヴァンスのアプローチの技量を如何なく発輝する好例となっている。
エヴァンスは晩年、薬物と飲酒で体を壊したに関わらず治療を拒んだという。自らがなぜ破滅の道を選んだのか。それは正に彼がピアノで垣間見せた内省だけが見え、誰にも計り知ることはできない。
苦悩を重ねながら死の直前まで前進を続けたピアニストとして、クリエイターを職とする私は尊敬の念に堪えない。
静寂の深夜になると殆ど毎日、私は『My Foolish Heart』をかける。一日の終わり、心の平穏を誘う曲だ。Live録音の最後の拍手の臨場感がライブハウスの体温を感じる。
私の一日はJAZZに始まりJAZZに終わる。エヴァンスの音楽は遠く離れた友からのように、今夜もピアノが囁き、響いてくる。

ヒコ・ウォーケン(YASUHIKO TAKAHASHI)
ライフスタイル デザイナー
プロフィール:
ファッション、流通マーケティング分析、企画、音楽プロデュース、映像、販促、メデイア情報、講演を駆使し、ライフ・スタイルデザインを軸に多くの企業コンサルティングに携わっている。独自の感性、レーダー力、分析力で唯一無二のビジネスに定評が集まる。特に自らの持論である『文化情報経済』は常に時代を先取し、ビジネス・トレンドを創造し続け、今にある。現在は日本版【クオリティー・オブ・ライフ】の創造発信と体験型ライフデザインに力を注ぎ、精度の高い時間創造を提起している。
マデイソンコンサルティング創業者。